H22.11.3 巡礼
H23.10.1 UP



「諏訪・安曇」グループを終えて、これより長野県の最北霊場より善光寺に向かって南下する「南下」グループを記載します。

信濃三十三観音霊場の最北端は19番「菩提院」で、ここへは車で行きました。
「針田」の人家が有る所に道に鳥居が立っており、「小菅神社第二鳥居」というらしい。
鳥居を潜って寺へ行くまでの道程は、上りの坂道が延々と続いており、自転車だと押し歩いてドエレエ目に遭っていたと思う。

道端に石碑群があり説明看板が有ります。
土手に上がってわざわざ見に行ったが、永年経過のためか字が読みにくく「・・・の力石 ・・・仁王門に参拝し・・「うーん」と・・・」だけしか読めず、全く何が書いて有るのかわからんかった。
関係者の人、見ていたら直してね。
「小菅」集落入口付近に仁王門があり、これまた読みにくい説明看板だったが石碑群の看板よりも読みこなせる。

中には、仁王さんも、ちゃんと番をしていました。
火の見櫓の脇を通って「講堂」近くの広場の駐車場に車を置きました。
近くに「いにしえの歴史に香る浅葉野の里」と書いた大きな案内絵図が有り、これはわかりやすかった。

「講堂」を最初に見た時、建物が古かったので、これが観音堂かと思っちまったが、絵図で確認すると、もっと山の麓へ行かなければアカンようです。
観音堂へ行く途中に「講堂」脇を通ると、縁の下には古い雪橇が置いてあり、だれが使っていたのでしょう。
今は、こおいうのは、あまり残っていないので骨董的価値が有ると思う。

これを書いてる時に調べたのですが、「阿弥陀堂だより」のロケ地が、この「講堂」裏に有る「小菅神社 里宮」で有ったらしい。
わかっていれば、話しの種に行ったのですが、長い階段が有り、観音堂を参拝した後、小菅神社奥社へ行くつもりだったので、里宮は大した事がないだろおと思い、省略しちゃって行きませんでした。
今思えば行っておけば良かった。



人家の脇道のような所を通って行くと、そんなに遠くなく、観音堂入口には六地蔵が有り、こじんまりとした19番札所「菩提院」観音堂に着きました。
堂内は開放されてるので入る事ができ、オマケに提灯に電気まで点いてました。

堂内には人物が沢山描いた奉納額が有り、数えて見ると100人描いてるようで「百人一首」の作者を表しているのでしょうか?。
だれか知ってる人が居たら教えてね。

ちなみに「明治19年8月15日(1906年) 浅葉野婦人会」が奉納したよおで、100年前にしては保存状態が良かったためか新しいように見えた。
いかにも古くからあるお堂らしく、壁板には墨であちこちに一杯落書きしてあります。
屋号の印や達筆な字で「天下太平・・奉納・・当國・・文化11年」と書いてあり江戸時代の物でしょうか。

文化11年といえば、調べてみると1814年で、今から200年前の人が書いたのですねぇ。
それにしても字が上手だなぁ。
字だけでなく、絵も描いてあります。
女の人が座って手鏡を見ている?絵は、着物の模様も省略する事無く、また下絵や印を付ける事なく、いきなりサラサラと描いたよおで、なかなか絵に慣れた人が描いたように思う。

他にもタコが棒を持ってる?ような、わけのわからん物や、山伏?が弓矢を構えている落書きもあります。
鉛筆やマジック等ではなく、たぶん墨で描いてあるのだと思い、そこらの近所に居る悪ガキが描いたのではないと思うがなぁ。

200年前の落書きなんて、そお見られる物ではないので価値が有り珍しいものだと思う。
地元の人達には珍しくないかもしれんが、世に知られていない珍しい物を、こおやって偶然に発見する事が出来るのは、やっぱり巡礼しているための御褒美かな。
観音堂横の墓場を抜け、「菩提院」納経所の横道を通って小菅神社奥社へ向かいました。







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H23.10.27 亭主 拝 m(_ _)m ハハアァァァ〜・・・