H21.8.6 巡礼
H22.10.20 UP
17番「不動院」(見附市)〜18番「根立寺」(与板)〜
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                 「越後三十三観音巡礼地図」

      HOME > 越後三十三観音霊場「目次」 > 103 妻入り街並(出雲崎)

尺八を携え歩いた越後三十三観音霊場記



 越後屋が出雲崎まで車で送ってくれ、ついでに一緒に妻入りの街並みを見物しました。


 街外れに「尼瀬獄門跡」ちゅうのがあります。
尼瀬獄門跡

 30年ほど前にそこを車で通った時は、いかにも荒涼とした野原で、打ち首になった人達の怨霊が、そこらに漂っているような気がしました。


 今回は久々に行ってみると少し整備されており、以前ほどの荒涼感が無かった。
尼瀬獄門跡

 案内看板を読むと、重罪人の生首は道を挟んだ浜側に晒されてたらしく、北国街道を行く人達も見たくなかったろおなぁ。


 ちなみに良寛さんは、この処刑を見て出家したという説もあります。
尼瀬獄門跡

 出雲崎の町並みへ入ると、「出雲崎よもやま話」と書いた伝説等が書いてある看板が、所々の家の壁に貼り付けて有ります。


 また、歴史的な史実が有る箇所には、その説明看板が多数設置されており、「へえぇ〜・・そおだったのか・・」と思いながら読んだりして行くと単調な町並みも楽しみながら歩けて、けっこう面白かった。


 このような看板作戦は、初めて町を訪れる人にすれば、町の歴史等がわかり、また自分の時間に合わせてゆっくり見れるので、この看板作戦を考えた人は、もんのすごくエライッ!!。


 観光行政にたずさわる人は、一度来所して自分の目で確かめると良いと思う。
出雲崎よもやま話


 歩いてると「堀部安兵衛の住居跡」ちゅうのが有り、あの赤穂浪士の討ち入りした有名な人物が、ここに一時住んでたとは知らなかった。


 説明看板を読むと、元新発田藩士であったが家が没落し、江戸へ行くまでの間、ここで手習師匠をして暮らしていたらしく、その時の年が、わずか19才。

妻入り街並
 エライでんなぁ・・今時の高校生より、しっかりしとるでぇ。


 「出雲崎代官所の移転」というのがあり、それには戊辰戦争の時に官軍に攻められた場合、代官所を焼き払って引き上げるという、お上のお達しが有ったらしいです。


 ところが、この時の「おでぇかんさま」は、「長い間世話になった町の衆に、代官所を燃やして延焼させちまったらカワイソーだ」と思い、引き上げの時に形式的に門前で焚き火をして退却したそうな。

御用小路
 おかげで出雲崎は焼け野原にならず、今も残る妻入りの町並みを残す事が出来たそおです。


 越後屋と結託してネングを取り立てる悪い「おでぇかんさま」ばっかりでは無く、融通が利いて血も涙も有る情け深い「おでぇかんさま」もいたんですねぇ。


 特に「形式的に門前で焚き火して退却する・・」なんて事を決断し、やってのける事なんて、そこらの並の人間じゃ出来ないと思う。
妻入り会館

 道筋に「妻入り会館」ちゅうのが有り、タダだというので入ってみました。


 まだ朝が早かったので、他に観光客も居ず、それでも係りのオバハンが奥から出てきて説明してくれました。

妻入り会館 内部
 二階にも上がって建物の構造を見る事ができ、この「妻入り」の形は街道に臨む家、全てが同じ作りだそうです。


 同じ作りだと泥棒さんが入り易いのでは・・と、よけいな心配しちまった。


 玄関入口は必ず北側(寺泊側)で、南側(柏崎側)は客間になっており、これは南側に京の都が有るので上座に当たるという理由からだそうです。


 ほほおぉぉ・・・聞いてみないと、わからんもんですなぁ。
 この後、町並みを歩きながら建物を見ると、言われたように全て北側が玄関になってる構造でした。
出雲崎の古い写真

 また、この「妻入り」構造の建物は玄関から入ると、そのまま反対側の外(海側)へ出れるようになっとります。


 今は海岸側にバイパス道路が出来ていますが、昔は家の近くまで浜になっており、近所の人達が浜へ行く時、他人の家の玄関先からでも「ちょっと通らせてもらいますよ」と言って、だれでもが通り抜ける事が出来て生活道路みたい感じだったらしい。


 しかし、それだとプライバシーも、何も無かったろおなぁ。


 オバハンから
「まだ出来たてで、あんまり冷えていないけれど・・」と言いながら麦茶をご馳走してくれて話しを聞きました。


 この「妻入り」の家・形は、どれもよぉ〜似ています。


 そのため昔、他所からここへヨメさんに来たばかりの人が、バスで買い物に出て帰って来た時、バス停で降りても同じような作りの家が並んでおり、どれが嫁いだ家かわかりまへん。


 そこらの家で「△△の家はどこでしょうか?」と尋ねても、同じ名字の家が多くてわからなく、ドエレエ目に遭ったという笑い話しも有ったそうです。


 まぁ、確かに作りが同じで、家もよぉ〜似ていますねぇ。


 毎年、東京芸術大学の学生が出雲崎に来て絵を描いていくそうで、学生達の衣食住は出雲崎で負担するが、出来た絵は出雲崎に寄付する事になってるらしい。

公家小路
 こおいう試みも、地味だが地域発展のために良いアイデアだと思う。


 その作品集の本を見せてもらったが、さすがプロの卵・・上手いでんなぁ。


 本を見ながら、オバハンが言うには
「こんな壊れたような汚い家(廃屋)より、もっとキレイな場所を描いてくれれば良いのにぃ」
芭蕉が泊まった大崎屋

 まあ、地元の人だから、キレイな所だけを描いて欲しいという気持ちはわかるが、あんまりキレイ過ぎる物は面白みが無く、むしろ壊れかかった汚い物の方が味が有るからなぁ。


 礼を言って出発する時、外に置いてあった笠を被ると、見送りに出たオバハンが、
「あらあぁ・・巡礼さん?」と感嘆の声を発します。
良寛誕生地 橘屋

 そおでっしゃろなぁ、だいたい今時、笠被って杖を持って歩いてる姿なんて、テレビのドラマ世界でしか見た事ないわなぁ。


 「はい、越後三十三観音霊場を巡ってるのですが、知ってますか?」と聞くと、珍しく知っていました。


 
「はらあぁ〜・・信心深いんですねぇ。」


 
「いえいえ、信心なんて全然有りゃあしません。
 今まで罪深い・・悪い事を、一杯やって来ましてなぁ(遠くを目で見るように)・・
 その罪滅ぼしに、こおやって反省努力しながら巡っております。」


と冗談で苦笑いしながら言うと、側に居た越後屋が
「けっ・・ウソこけぇ、よぉ〜もまぁ〜シラジラしい事を・・・・」と小声で言います。


 あっ・・こらっ・・いらん事を言うな。
 黙っとりゃ、わからんのにぃ。
 せっかくオバハンが、その気になって「カワイソー」オーラーを出し始めたのにぃ。


 でもオバハンには越後屋の小声が聞こえなかったらしく、真に受けたよおで
「あらぁ〜・・まだお若いのにぃ・・」と憐れみの目で見て「カワイソー」オーラーを全開します。


 ん?・・そうかなぁ?
 まぁ、オバハンよりも少しだけ若いかもしれんが・・・



 でも、オバハンを失望させないために、カワイソーな巡礼役をそのまま演じました。
 σ(*_*)も役者じゃのおぅ。(^O^)







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 お手数ですが「第一部」と称していた「遍照の響き」に移動して頂き、以後はそちらの該当ページを参照してくださるよう、お願い致します。
           H23.10.27  亭主 拝 m(_ _)m ハハアァァァ〜・・・