H19.10.9 巡礼
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「1番 岩屋堂 〜 乳母ケ嶽神社 〜 直江津・国分寺」区間 地図

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尺八を携え歩いた越後33観音霊場記



 コンクリ舗装の農道のような旧道をテクテク・・・


 少し行くと、石の道標が有り、読みにくいが「左神社道右山道」と書いてあるようです。


 左というのは、これから進む方向で、右は今来た道。
 まぁ・・昔は山道だったのかもしれん。


 道標の正面には海方向から上がって来る細い農道のような道があり、この道を登って来た人のための道標でしょう。

乳母嶽神社
 少し行くと木々の間に家が見え、それが目指していた「乳母嶽神社」です。


 正面に行くと、ちゃんと鳥居があり、村の小さい神社かなぁ・・という程度の大きさですが、昔の絵図にも、この神社の存在が記されております。


 松尾芭蕉もこの神社を拝したのかと思い、調べてみましたら「名立崩れ」の地震よりかなり以前に、この付近を通っているので、その頃は海岸付近に道が有ったらしく、たぶん拝してないでしょう。


 境内では一人のオババが、銀杏をセッセッと拾ってスーパーの袋に詰めています。
乳母嶽神社

 挨拶して、この神社の云われを聞いてみると
 「安寿と厨子王の乳母が、この神社のそこ(拝殿奥の本殿付近)に埋まっているという言い伝えが有り、子供達の神様じゃ」


 安寿と厨子王の話は、創作物語だと思ってたんだけれど、あれ実話だったんかなぁ・・
 まぁ、佐渡には安寿塚が有るけれど・・


 「もし掘ってみて、何も無かったらアカンので、だれも掘って確かめていない」
 まぁ、そりゃあぁ、そうだわなぁ。(^O^)

乳母嶽神社 境内
 「ここの道は昔は街道じゃったから、この神社前を通る時には被り物・・帽子とか鉢巻きなんかしていたら先に進め無く、馬も立ち止まってしまったので、必ず被り物を取って通った。


 ある時、ワシの先祖に夢枕が立ち、「ロクスン?」をこの神社に埋めたら通れるようになるとお告げがあった。


 村の人に話しても本気にしてもらえんかったが、1ケ月も続けて同じ夢枕が立ったので、村の人もそれだけ長い事、夢枕が立つのなら本当かもしれんと思い、「ロクスン?」を埋めたんじゃ。


 埋めた所がそこじゃ(安寿と厨子王の乳母が埋まっているという場所)。
 それ以来、被り物をしても、前の道は皆が通れるようになった。」



 話しに出てくる「ロクスン?」って何かと思ったが、聞いてもバサマの説明では、わからん恐れが有り、余計に話しがわからんようになるかもしれんと思い止めといた。

乳母嶽神社 拝殿内

 拝殿の階段に荷物を置き、扉が閉まっているのを見ていると、バサマが


「戸が開くから入ってもええよ。
今日はまだ来ないが、戸を開けて近所のバサマ達とそこで話ししとるんじゃ。」



 そか、ここは近所の老人の溜まり場なのね。


 御言葉に甘えて戸を開け、中を見ると真っ暗・・・


 どっかに電気のスイッチ無いかなぁと探したら近くに有り、スイッチ入れたけれど電気が点かなかった。

諏訪社 乳母嶽神社境内
 まぁ、いいや・・と暗い拝殿内に入り、室内にはそれ以上入れないように座敷牢のような柵がしてあります。


 柵の奥が「安寿と厨子王の乳母」だか「ロクスン?」だかが埋まってるらしい本殿なのでしょう。


 そこで2曲尺八を吹きました。


 吹いてると気分が乗って来て、真剣に吹くので汗が出て来ます。
 家で吹いてる時でも、気分が乗ってる時は真冬の寒い時でも汗が出ますなぁ。
乳母嶽神社

 参拝が終わって扉の外へ出ると、銀杏を拾う手を休めずにオババが涙声で
「良い音を聞きました。ありがとうございました。」と礼を言い、鼻水をすすり上げます。


 
「わたしの亡くなった父も尺八を吹いていましてねぇ・・・
 聞いていて、父を思い浮かびました。」



 ううむぅぅ・・泣いてくれるオババは、たいてい亡き父が尺八をやっており、それを思い出して涙するようです。


 よっぽど、その尺八は、今どうなってる?・・と聞きたかったが、銀杏取りに忙しそうなので止めといた。
乳母嶽神社 拝殿彫刻

 この神社は、小さい神社なのに彫り物が立派で一見の価値が有ると思う。


 拝殿正面の上には「波」の様子が細かく彫ってあり、両袖には「2匹の龍が睨み合い」「滝」が見事に彫ってあります。
乳母嶽神社 龍の彫刻乳母嶽神社 滝の彫刻乳母嶽神社 鳳凰の彫刻

 拝殿周囲の上にも「鳳凰」などが彫ってあり、それを誉めると
「大正何年だかに、名立の人が私の家に何日も泊まって彫った」と言うので、話しぶりからバサマの家柄は付近の名主か庄屋さんだったのかもしれん。


 神社の案内板を見ると
「源義朝の家来、野宮権丸郎が落ちのびて、この地に隠棲したとき、海より霊像を得て奉り、乳不足の婦人が祈願したら乳が出るとお告げがあった」となっております。


 おいおい・・バサマの言う安寿・厨子王の話と、だいぶ違うでぇ。
 しかし、そおいう伝承も、どこかに有ったのでしょう。


 帰って、この神社の云われをネットで調べると


 
「大国主命と奴奈川姫命の結婚話まで遡る所から始まり・・・


 途中経過は長くなり、ややこしくて面倒なので、かなり省略、はし折ちまっい・・
 その結果として、とにかく何でかよぉ〜わからんが、奴奈川姫が追っ手から逃げる事になったそうです。

諏訪社
 その逃げた場所がここ「吉が浦」で、姫は「ここが気に入ったので、もうここから動きたくない」とワガママ言い始めたので、しかたなくここに宮殿を建て、姫はここで天寿を全うしました。
  メデタシ・・メデタシ・・ヨカッタ・・ヨカッタ・・・。



 
その宮殿跡が姫の墓と言われている。


 その後、源義朝の家来が沖から神像を引き上げ、姫の墓上に「姥が嶽姫」として姫を祀た。現在、「姥が嶽神社」となっている」(「伝承でつづる奴奈川姫命物語」より)




            


「茶屋ケ原」集落へ
 話しは少し変わりますが、σ(*_*)の高校に「終戦時、進駐軍に見つかるといけないからと言うので、寄宿舎の下に銃が埋めてある。」と一部在校生の間で語り伝わっていました。


 もちろん、だれも掘ってみようとは言わず、ホンマかいなぁ・・と、その時は思ってました。

「茶屋ケ原」集落より
 それから数十年の年月が過ぎ、あの頃は美少年?だった高校生は、ますます美しく成長して美青年?となった頃(今は小汚いジジイになっちまい、だれも振り向いてくれんが・・)


 「高校敷地を造成作業をしている時に、銃が見つかった」と新聞に出ており、銃は5丁ほど有りましたが、長年埋もれていたため錆びて使い物にならん状態だったらしい。


 当時「どこそこに銃を埋めた」と言うのは、ほんの少数の関係者しか知らない極秘事項だったと思います。


 しかし何かの時に・・・ドンチャン騒ぎをして酒でも飲んだ時なのか・・、チラッと関係者が、うっかり他の人に漏らしちまったんでしょうなぁ。


 「内緒だけれど・・他に言うなよ・・」と前置きした話しが、戦後十数年間、延々と口伝えに語り継がれてσ(*_*)が聞き、さらに数十年の年月を経て(戦後約40年後だったと思う)、偶然にも発見されて伝承が事実だったとわかりました。


 この事から、言い伝えとか伝承というのは、ほんの微少でも、どこかに何かの真実が混じってると思うようになり、たぶんこの神社も、だれかは知らないが当時では尊い方だった墓の上に建っていると思う。








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           H23.10.27  亭主 拝 m(_ _)m ハハアァァァ〜・・・